五峯山の聖域 光明寺の歴史と戦い
五峯山の聖域
光明寺の歴史と戦い
光明寺は、五つの峰よりなる五峯山にあり(山号ともなっている)、その主峰頂上近くに光明寺の本堂がある。
寺伝によると光明寺は、今より千四百余年前の推古天皇の時代、法道仙人がこの地に来たとき、一老翁が現われ観音像を渡して、「この地は観音さまをおまつりするのにふさわしい霊地である」とのお告げを受けたことから、大衆信仰の霊場として開かれたものである。その後、仁明天皇の勅願寺となり、多数の寺院坊舎を存し、栄枯盛衰を重ねて現在に至っているが、特に足利尊氏と弟直義との戦いであった正平七年(観応三年)の光明寺合戦(1352年)は、歴史的に有名である。
法道仙人作と伝えられる本尊の十一面千手千眼観音、脇士不動明王、毘沙門天を安置した本堂は、鎌倉時代の様式で大正十四年に再建された。その他、文殊堂、鎮守社、常行堂などがある。また、光明寺はお寺らしいお寺のたたずまいに満ちており、全国真言宗七十五名刹の一つに数えられている。
光明寺は、五つの峰よりなる五峯山にあり(山号ともなっている)、その主峰頂上近くに光明寺の本堂がある。
寺伝によると光明寺は、今より千四百余年前の推古天皇の時代、法道仙人がこの地に来たとき、一老翁が現われ観音像を渡して、「この地は観音さまをおまつりするのにふさわしい霊地である」とのお告げを受けたことから、大衆信仰の霊場として開かれたものである。その後、仁明天皇の勅願寺となり、多数の寺院坊舎を存し、栄枯盛衰を重ねて現在に至っているが、特に足利尊氏と弟直義との戦いであった正平七年(観応三年)の光明寺合戦(1352年)は、歴史的に有名である。
法道仙人作と伝えられる本尊の十一面千手千眼観音、脇士不動明王、毘沙門天を安置した本堂は、鎌倉時代の様式で大正十四年に再建された。その他、文殊堂、鎮守社、常行堂などがある。また、光明寺はお寺らしいお寺のたたずまいに満ちており、全国真言宗七十五名刹の一つに数えられている。
兵庫県加東市光明寺433 〒679-0213 兵庫県加東市光明寺433