日本最初の尼寺であり太子ゆかりの聖地
日本最初の尼寺であり
太子ゆかりの聖地
この西方院は、日本で最初に創建された尼寺であったと言われている。
その昔、蘇我の大臣の娘たちに、日益、月益、玉照の三姫があった。三人とも聖徳太子の乳母で、太子の死を知るや髪を剃り、太子御廟の近くに太子菩提のための寺を建てた。これが現在の西方院で、当時は、法楽寺といい、後に荒廃したものを蓮誉寿正尼が中興し、その時から、西方院と呼ぶようになったと言われている。
本堂には、太子作の阿弥陀如来像と三尼公の木像がまつられており、聖徳太子が御二歳、南無仏と唱えられたときの像も安置されている。どこまでも太子ゆかりの寺という感じがする。この他、観音堂には、恵信僧都源信作の十一面観音が祀られ、また極楽浄土変相図、慈雲尊者の遺墨や、中将姫が髪で刺繍されたという三尊仏なども残されている。
西方院の南側の墓地の一角に小さなお堂があり、その中に三基の墓石がある。三尼公のお墓である。千三百年の間、この片隅で、つつましやかに世の移り変わりを眺めてきたこの墓石は私たちに何かを語りかけているようである。
西方院の南側の墓地の一角に小さなお堂があり、その中に三基の墓石がある。三尼公のお墓である。千三百年の間、この片隅で、つつましやかに世の移り変わりを眺めてきたこの墓石は私たちに何かを語りかけているようである。
この西方院は、日本で最初に創建された尼寺であったと言われている。
その昔、蘇我の大臣の娘たちに、日益、月益、玉照の三姫があった。三人とも聖徳太子の乳母で、太子の死を知るや髪を剃り、太子御廟の近くに太子菩提のための寺を建てた。これが現在の西方院で、当時は、法楽寺といい、後に荒廃したものを蓮誉寿正尼が中興し、その時から、西方院と呼ぶようになったと言われている。
本堂には、太子作の阿弥陀如来像と三尼公の木像がまつられており、聖徳太子が御二歳、南無仏と唱えられたときの像も安置されている。どこまでも太子ゆかりの寺という感じがする。この他、観音堂には、恵信僧都源信作の十一面観音が祀られ、また極楽浄土変相図、慈雲尊者の遺墨や、中将姫が髪で刺繍されたという三尊仏なども残されている。
西方院の南側の墓地の一角に小さなお堂があり、その中に三基の墓石がある。三尼公のお墓である。千三百年の間、この片隅で、つつましやかに世の移り変わりを眺めてきたこの墓石は私たちに何かを語りかけているようである。
大阪府南河内郡太子町太子1663 〒583-0995 大阪府南河内郡太子町太子1663